2014年09月01日

超音波実験写真


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2014年09月01日

西田幾多郎[著]: 直観と意志


西田幾多郎[著]: 直観と意志
私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると云つた直観の意義を、最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ。自覚に於ては、我が我を対象として知るのであり、知ることは働くことであり、創造することである、而して此の知るといふことの外に我の存在はない。
我々は普通に感覚といふ如きものには、自覚がないと考へる。然らば、色とか音とかいふものは何処から出て来るのであるか。物理的原因が色や音を生ずるのではない、物理的原因とは説明のために設けられた仮定に過ぎない。プロチノスも衝くとか起すとかいふことから 如何にして種々の色や形を生ずるかと云つて居る。色を生ずるものは色自身でなければならぬ、音を生ずるものは音自身でなければならぬ。全然独自にして他より生ずることのないものは、自ら働くものでなければならぬ。而して精神的なるものが自己の中から動き自己によつて創造し行くといふことは、自己自身を知り行くことでなければならぬ。我々はかゝる創造作用を、芸術的直観に於て、最も能く証することができる。芸術的直観に於ては、働くことは見ることであり、見ることは働くことで ある。プロチノスは行為を直観の弱き形と考へたが、芸術的創造作用に於ては、その作用其者が同時 に知でなければならぬ。行為は概念に従つて起り、その目的は直観にあると云つて居るが、すベて目的的統一に於ては終が始に還るのである。始の目的が実現せられた時、目的が目的自身を見たといふことができる。普通に行為といへば、その間に外界の運動といふものが入つて来る。それだけプロチノスの如く直観の弱きものといふことができる、不完全な直観といふことができる。唯所謂内面的意志の場合に於て、我々は我々の心の中を見ると考へられ、最も直観に近きものと考へられる。併し知的立場を超越せる意志内容の発展と見るべき芸術的直観に至つては、始と終との間に挟まつた外界といふ如きものはない。所謂空間なく、時間なく、全体が一つの直観となる、行為其者が直に見ることとなるのである。一般に我々の精神は空間を超越し、直接に相働くと考へられるのは、此意味に於て行為を内に包むといふことでなければならぬ。此故に意識の根柢に直観があるといふことができる。行為を包むことができればできる程、意識が明となると考へることができる。意味即実在といふことは目的的統一の形に於て可能なるのである。プロチノスは直に真を見得るものは誰か真の影たる行動を求めるものがあるかと云ひ、精神的となればなる程、行為を離れて静的直観となると考へて居るが、直観が明となるといふことは、行為を否定することではない、行為を内に包むことである、時間や空間がなくなることではない、時間や空間が内に包み込まれるのである。我々が物を知るといふことも、 我々の心が働くことである。知的主観といへども、単に物を映す鏡ではない、構成作用でなければならぬ。斯くして認識主観の形式が認識作用に対して当為となるのである。単に受働的なる主観は消極的なる限界概念に過ぎない。主知主義の人は意志や感情の如きものでも、反省せられた時、それは知 的対象に過ぎないと考へるが、単に知的対象として反省せられた時、それ等は有機感覚や運動感覚の 如きものに過ぎない。此等のものは反省せられるのではなくして超知識的立場に立つて再び体験せら れるのである。知的主観といふのは意志主観の外に出ることはできない、却つてその内にあるのである。自我の統一は作用と作用との直接の結合にあるのである、フィヒテの事行といふ如きものである。 真の主観、真の自我とは、かゝる意味に於て働くものをいふのである、働くものなき働きである。我は一方に於て知る我であり、一方に於て働く我である知る我は働く我より大にして、之を包むと考へられるが、知る我も亦働く我の一である。芸術的直観に至つては、働く我は直に知る我であり、知る我は直に働く我である。知識我の立場から見れば、その内容は不変であつて之を知る過程は外的と考へられるであらう。プロチノスの云つた如く、精神の理性的部分は不変不動であつて、之より出るものは唯之を分有するに過ぎないとも云ふことができる。併し目的的統一に於ては動くものと動かざるものとを切り離すことはできぬ。前に進むといふことは後に退くことであり、動くといふことは直観することである。直観するといふことは、種々なる関係や過程を離れろことではない、不純なるものを純化してその本質をとらへることである、純なる一つの働きとなることである。単に眼で見るといふ如きことが直観ではない。十全なる知識も此の如き意味に於て直観である。無限に遠く照らさざる光は光にあらざる如く、不変不動と考へられる第一の部分より流出するものは、之に対して偶然なるものでなくして、必然なるものでなければならぬ。
働くといふことは、精神的なるものが自己自身に還るといふ意味に於て直観である。かゝる意味に於て、見ることが直観であるのみならず,考へることも直観と云ひ得るであらう。併し真に働くことが直に知ることであるといふ意味に於て、直観と称すべきものは、寧ろ我々の意志の自覚といふ如きものにあるのではなからうか。我々の欲望は物から起るのではない。己より出でて己に還ることによつて、欲望が満されるのである。水が我々の欲求の対象となるのは、我の要求によるのである。我の欲求は我の創造であつて、この欲求を満足するといふことは、我を客観的に構成することである、即ち客観的に我を見ることである。我々が水を味ふといふことは水を知ることであると共に、之によつて我を見ることである。我々の欲求は物によつて満足せられるかの様に考へられるが、我は我の中に我を見ることによつて、満足するのである。精神的なるものが自己自身を発展し、自己自身に還ることを直観とするならば、此の如き作用に於て真に自己が自己を直観すると云ひ得るであらう。我々が色を見つゝある時、音を聞きつゝある時、又真理を考へつゝある時、色や音や真理が自己自身を直観
しつゝあると考へ得るであらう。併しそれ等の作用は何処までもそれ自身に全からざるものである、その始に還ることはない、開かれた体系である。之に反し作用が作用自身に還つた時、終が始と結合した時、即ち作用自身が自覚した時、それが意志の形を成す、是に於て我々は始めて我々の精神現象を知るといふことができる。我々の精神現象とは作用の自覚したものである、作用が作用自身を対象としたものである。併し作用が作用として対象化せられるには、作用の作用の立場に於てでなければならぬ、作用を作用として限定し得るものは作用の作用でなければならぬ。此故にプロチノスの云つた如く、万物は一者即ち「善」によつて成立し、万物は善に向つて努力すると云ふことができる。意志の形に於て「善」が自己自身に還り、自己月身を直観するといふことができる。すべての作用が自己に還り自己を直観するのは、意志の形に於てでなければならぬ。自覚に於て反省作用其者が自己を直観することである如く、働くといふことが自己を見ることである。働くものと働き自身とが離れて居る間は、真に作用が作用自身を知るといふことはできぬ。純なる作用自身となることが直観することである。すべて存在するものは働くものであり、精神が働くといふことは、自己自身を見ることである。一つの精神作用が已自身を見つゝ行くことが意志であり、それが元に還ることが直観である。自己が自己を見ることは自己自身を満足することである。唯作用の首尾相合しない時、即ち作用自身が自覚せない時、意志と知識とが分れるのである。アウグスチヌスの考へた如く、我々の心の中に過、現、未がある、而して過去は記憶の中に、未来は希望の中に、現在は直覚の中にあると云ふことができる。真実在は我々の知識の対象たると共に、希望の対象でなければならぬ。此両端の結合に於て、我々に十全なる永遠の真理が見られるのである。スピノーザの知的愛は、プロチノスの云ふ如き無限に能働的なる善でなければならぬ、如何なる意味に於ても、対象化することのできない自己自身の直観でなければならぬ。作用が作用自身を直観するといふことは、知るといふことより、寧ろ自己を満足するといふことでなければならぬ。作用に対して何物か外的なるものがある時、それは単なる知的
対象となるが、十全なる知識に於ては知ることは満足することでなければならぬ。十全なる知識といふ中には意志の満足といふことが含まれて居る。作用が作用自身を見るのは、意志の立場に於てでなければならぬ。プロチノスは、精神は二重の力をもつて居る、その一を以て、即ち思惟を以て、物を自己の中に見るが、その他を以て、即ち直覚を以て、彼の上にあるものを見る、直覚を以てしては、先づ単に見るのであるが、後之を知り、一者と合一する、前者は思惟の直観であり、後者は愛の直観
であると云つて居る(VI. Enneade, Buch , Kapitel .)。精神が自己の中に物を見るといふ時、精神は精神自身を見ることはできない、主と客とは離れて居る。自己の中に見るといふ時、物は自己を離れて居るのである。直覚によつて自己の上にあるものを見るといふ時、作用の作用の立場に於て作用が作用自身を知るのである、作用自身が自覚するのである。而して斯く作用が作用自身を知り、一者と結合し行くのが、意志の過程である。意志とは一者の立場に於ける直観の過程である、一者より出でて一者に還り行く過程である。知識の立場から云へば、真理を直観すれば行為を無用視することができるかも知らぬが、意志の立場から云へば、如何なる行為も直観の内容として欠くべからざるものでなければならぬ。一者の立場に於ては、すべてが直観の内容とならねばならぬ。空間を超越せるものには、直路も迂路もない筈である。動と静との対立も一者の上に於て成立するのである。私は直観といふことは、眼で物を見るといふ様に、静に物を映すことではなく、主と客とが純なる一つの働きとなることであり、精神的なるものが自己自身を発展することであると考へる。此意味に於て、私は直観といふことを、意志の形に於て理会し得ると云ふのである。意志の極致が直観であるといふことができる。我々の精神は意志に始まつて意志に終る。首尾相合して、一つの円を成す時、それが直観となる。併し働くものを斯く見るには、之を包む無限大の円でなければならぬ。此故に万物は、すべてを包み、何物にも包まれない一者に於て直観せられるのである。動くものを止めて見るには、自らそれ以上に動くものでなければならぬ。一者は無限に動くものを包み、之を止めて見るといふ意味に於て、無限の動と考へることができる。併し意志は、単なる運動ではない、単なる変化で
はない、終が始に含まれて居るのである、目的其者は不変不動であると考へることができる、此の不変不動なるものが変化を起すのである。私はプロチノスの時は永遠なるものの影である(III. Enne- ade ) と云つた語に深い意味を見出さざるを得ない。自己自身の中に不満を抱くもののみ、時を見る、自己自身に於て満足するものの中には時はない、その物は永遠である。すべてのものの目的となり、すべての物が之に向つて動く一者、即ち善は不動でなければならぬ、絶対に自己自身の中に満足するものでなければならぬ、アリストートルのfirst moverの如きものでなければならぬ。一者は無限なる作用の不変不動なる統一と考へることができる。元来、作用の統一といふ時、我々は直に静止せる一つの統一を考へるのであるが、此の如き統一はヘ-ゲルの所謂caput mortumに過ぎない。省みられた自己は真の自己ではない、純なる作用となるといふことが永遠にして不変なるものを見るといふことである。永遠の真、永遠の美は斯くして現れ来るのである。無限なる我々の意志は一者の直観に達する過程である。一者に於ては動即静であり、静即動である。かゝる一者を神秘として不可解となすならば、斯く考へる自己に返つて見るべきである。繰返すことのできない自己の経歴として、認識対象界に映されたるものは、自己の影像にして、真に働く自己ではない。働く自己は時の変化に対して不変である。我は動き行くものの原因であつて、その目的である。此間に何等の間隙がなければない程、我は時を超越して純なる作用の統一となる。この両者が分れた時、即ち動力因と目的因と別なる時、時に於ける変化がある。我々は皆映されたる自己を自己として見るが故に、我々の自己は永遠なる時の流の中に流れ行くと考へるのである。すべての作用の統一として、外に何物も許さない、万物の自己たる一者は、首尾合一し、無限の動たると共に、永遠に自己自身の中に留まるものでなければならぬ。動力因と目的因と別なる時、後者より見れば、前者は手段となるが、前者が後者によつて動かされる範囲に於て、却つて後者は前者に従属すると考へることもできる、両者に共に相働くものとなる。真の目的因は動力因を包容するものでなければならぬ。動力因は時の中に働くが、目的因は時の外に於て働く、時はその表現となるのである。動力因は時の流に従つて働くが、目的因は時の逆行と考へることができる、時を逆にしたものと見ることができる。時に於てすべての物は移り行くが、時自身は留まると考へられる如く、時は形式的なる目的的統一であり、目的的統一は内容ある時であると考へることもできる。此意味に於ては時其者が既に形式的なる直観と見ることもできる、永遠とは進み行くものと、元に還るものとの合一、動と静との合一である。前にも云つた如くこの合一に於て、一つの直観が成立し、この直観に於て我々は永遠の真理を見ろのである。一つのアプリオリの上に於て純化せられたる知識が、それぞれの立場に於て、永遠の真理と考へられるのは之に由るのである。種々の芸術美が一々の立場に於て、永遠の価値を有すると考へられるのも、一々が作用の作用の立場に於ける作用自身の自覚として、一つの直観なるが故である。我々の時と考へるものは、時時刻々に消え行く作用の形式を見て居るのである。閉ぢられた体系の中には、時はない、開かれた体系の中に於てのみ、時を見ることができる。時は一つの閉ぢられた体系から、之を包容する背後の体系への結合と見ることができるであらう。二次元の世界から三次元の世界を見るならば、その何れかの一次元は時の軸と考へられるであらう。我々は三次元の世界に住むが故に、ミンコウスキーの四次元の世界の一つの次元は、時の軸と考へられねばならぬのである。併し作用が作用の立場に於て反省せられた時、時は更に高次的な立場に於て包容せられて意志発展の過程となる。而して乍用の乍用自身が自覚し、創造的となる時、意志は意志自身の実在性を失つて一つの直観となる。而してかゝる直観を無限に統一するものが一者である、一者は直観の直観でなければならぬ。  ( 直感と意志 終わり)



参考資料
西田幾多郎―その思索の軌跡と独創性―
1 「真正の己」を求めて
2 「純粋経験」―『善の研究』
3 絶対自由意志の立場―『自覚に於ける直感と反省』
4 「場所」の論理―『働くものから見るものへ』
5 絶対無の自覚的限定―行為・表現・身体
6 行為的直感―弁証法的一般者としての世界
7 宗教哲学としての西田哲学

西田哲学における実践の概念について
1 「働くことは見ることであり、見ることは働くことである」
2 直感―行為によって物を見る
3 実践―行為的直感的な制作
4 ポイエシスとプラクシス
5 行為的直感の立場














  


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