2017年02月25日

思考について

橋本凝胤のことば
凝胤師は地動説を知識としては知っておられたにもかかわらず、
「地球に住んでいる、生きているかぎりは、天道説が正しい!」と、主張されたのです。
つまり、科学というのは大事なものであるけれど、
それ以上に「情緒」というものが大切であるので、
太陽が地球の周りをまわっていると言い続けられたのです。

人間性とはいかなるものであるか。
われわれは人のために生きているのではない。
社会のためにでも世界のためにでも、世界人類のために生きているわけでもない。
それを世界人類のために
生きているような考え方を持たねばならぬように訓練されてきているわけです。(中略)

しかしこういうものに、われわれは左右されてはいけないのです。
いつでも一人のときに、一人の生活の中に、
道というものが厳然となければならないのです。

何事もこつこつと続けることの大切さ,少しずつ積み上げていくことの尊さを忘れてはいけない

岡潔のことば
一九二九年から一九三二年まで私はフランスにいた。
その間に、私は次のような「不思議」に目覚めた。俳句はわずか十七字の短詩である。
自分の句の「評価」をどうしてするのだろう。
今日非常によく出来たと思っても、翌日には、昨日のあれは気のせいだったと思うかもしれない。
むしろ今日の喜びが大きければ大きいほど、
反動として、翌日はそれを強く否定してしまいたくなるだろう。

ところで芭蕉は本当によい句というものは、
十句あれば名人、二句もあればよい方である、という意味のことを言っている。
こんな頼りないものの、
わずか二句ぐらいを得ることを目標にして生きてゆくというのは、どういうことだろう。
にもかかわらず、芭蕉の一門は全生涯をこの道にかけたようにみえる。
どうしてそのような、たとえば薄氷の上に全体重を託するようなことができたのだろう。
この問題は在仏中には解決できなかった。
帰ってからよく調べているうちに、だんだんわかってきたのであるが、その要点をお話しよう。
「価値判断」が古人と明治以後の私たちとで百八十度違うのである。
一、二例をあげると、古人のものは、「四季それぞれよい」「時雨のよさがよくわかる」である。
これに対応する私たちのものは、「夏は愉快だが冬は陰惨である」「青い空は美しい」である。
特性を一、二あげると、私たちの評価法は、他を悪いとしなければ一つをよいとできない。
刺激をだんだん強くしてゆかなければ、同じ印象を受けない。
こんなふうである。これに対し古人の価値判断は、それぞれみなよい。
種類が多ければ多いほど、どれもみなますますよい。
聞けば聞くほど、だんだん時雨のよさがよくわかってきて、深さに限りがない。
こういったふうである。芭蕉一門はこの古人の評価法に全生涯をかけていたのであった。
この古人の評価法の対象となり得るものが情緒なのである。

「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、
私は本当は情緒が中心になっていると言いたい。
・・・木にたとえるとインスピレーション型は花の咲く木で、情操型は大木に似ている。
・・・情操が深まれば境地が進む。 」
「コピーは紙とインキで作れるが、
オリジナルは生命の燃焼によってしか作れない。
灼熱した情熱や高いポテンシャルエナジーがなければどうにもならないのである。」

「十考えても、そのうち本当のものである可能性は一つくらいしかない。
その可能性の中で、さらにまた本当のものは十分の一だ。
(中略) 可能性の可能性と言うのは、これは「希望」のことなのだ…」
「私は、一つの詩を読んで10秒以内で判る,
同じ詩を子供達に与えて3日3晩,2万4千倍の開き、情緒の器の違いです。
今のように記憶ばかりの勉強法では、20歳が限界。
お勉強の合間、合間に美しい音楽を聴いて下さい。情緒を深めてから勉強、
一日に情緒の器作りはあればあるほど良い」
人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのが不思議です。」

加藤耕山のことば
坐禅をして心が一つになったとき、誰しも言葉に表せない大きな悦びを感じて、
坐禅が「安楽の法門」であることを実感できる。
坐禅を始める人は多くても続ける人は少ないが、
そこまでいった人は坐禅を一生の友とすることになる。
西田幾太郎さんという哲学者が、「快楽と苦痛」ということで次のようなことを言っている。
「心が完全な状態、即ち統一の状態にあるときが快楽で、
不完全な状態すなわち分裂の状態にあるときが苦痛である」。
だとすれば、心が乱れていればどれほど豊かな生活をしていても苦痛な状態なのである。
ここでいう快楽と苦痛は、幸と不幸と言い換えても良いと思う。
「奥多摩の龍」と恐れられた徳雲院の故加藤耕山老師の偈、
行く先に 我が家ありけり 蝸牛
この句は、よく味わうと、仏法はこれに尽きる 耕山曰く。

野中郁次郎のことば
「知識を磨いて知恵にまで高めるには、審美眼や倫理観がないとダメだ。」
「経営は科学ではない。だからMBAだけでは決して学べない」
「マネジメントはクラフトでありアートであり、そしてサイエンスを総合したもの」
野中さんは、こんなコトも話していました。
「未来を知る方法は未来を自分で創造するしかない。
企業の差は、未来を創る能力の中にある。
未来はどんなに分析しても分からない。
唯一分かるのは、世のため人のために何をやりたいかということ。
そういう理念を掲げ、持続的に動機付けるためには志の高いビジョンに賭けるコト。
この「賭ける」という決断をしたときにはじめて我々は運命に抗するコトが出来る。
「賭ける」という場に立たない限り、誰もコミットしないと思うんです。
そういう未来に賭けながら、ミクロの現実の中に入り込んで未来を探っていく。
そこで得た気付きを美徳の現実、あるいは卓越性に向かって絶えずまわし続けていく。
知識を知恵になるまで磨くとはそういうコトだと思う」
野中氏は「日本には古くから理想の行動プログラムとしての“型”があった。
型は人を枠にはめるが、すぐれた型を体得すれば、動きに無駄がなくなり自由が保証される。
さらに“型”は獲得するだけで終わりではない。
“型”には不断のフィードバックを通じて革新しつづける
“修・破・離”という自己超越プロセスが組み込まれている」と述べている。
すなわち、経営の基本を学ぶことから出発し、やがて自社独自のやり方、“型”を作り、
やがて更に革新を進めていき新しい環境に合わせ、次の型を作っていくことである。
数多くの日本企業が導入に走った成果主義。
しかし、これがうまく機能しているという企業は実に少ないのが現状です。
目標管理制度の下で現場の社員がいくら頑張っても、
思うような評価を得られずにモチベーションが下がるというという状況が蔓延しているためです。
業績向上を狙ったはずが、企業の活性力を落とし、長期的には業績が悪化するということもあり得ます。

それでは、なぜ、これまでの成果主義は機能しなかったのでしょうか。
その理由は現場の社員にビジョンや戦略、戦術の背景が浸透していないためです。
すなわち、経営層や管理職の「思い」が伝わっていない。
単に、目標となる数字を下に降ろしたところで、現場は期待通りには動いてくれないのである。










  


Posted by 超音波システム研究所 at 19:14Comments(0)随想

2017年02月25日

カルノー・サイクルの経緯のように

カルノー・サイクルの経緯のように

技術の進歩が科学の進歩を促進する。
 (科学と技術の工学的な関係)
こういった関係が「超音波の利用」には必要(注)な気がします
注:実用や応用には多くのパラメータの適切なバランス感覚が必要
特に、設計を考慮に入れた観察が行えるようになるための
経験と直感の訓練により、本質的な発見やアイデアが生まれると思います




コメント:
実用と言う制約と、
興味深い現象の中から、適切な開発・設計を行うことは
開発者の人間性によるところが大変大きいと思います
諦めずに、粘り強く努力する根拠には、「困難を乗り越える喜び」と
それを理解してくれる
「第三者(歴史的、あるいは競合者、理解者)」があると考えています



カルノー・熱機関の研究

REFLEXIONS SUR LA PUISSANCE MOTRICE DU FEU ET SUR LES
MACHINES PROPRES A DEVELOPPER CETTE PUISSANCE
著者 サヂ・カルノー 訳者 広重徹


物理学における重要な基本法則、
熱力学の第一法則、第二法則が、ともに、
物理学の専門家でない医師マイヤーと工兵士官カルノーとによって、
それぞれ血液の研究、熱機関の効率の研究から導かれたことは科学史上、
特筆に価することであろう。

本書は、サヂ・カルノーの
画期的な研究が発表された唯一の論文
『熱の動力についての考察』ならびに
『数学、物理学その他についての覚書』の原文に忠実な翻訳と
訳者の懇切な注、弟イポリット・カルノーによる伝記と思い出、
さらに、カルノーの研究が科学・技術の歴史の中に占める位置に焦点をあてた、
熱力学の歴史的背景についての訳者による解説から成っている。

カルノーの仕事が注目されるのは、
まず第一に、その物理学(熱力学)への貢献の大きさと、
複雑な実際問題のなかから
最も本質的な関係を抽出し
理論を構成していく手腕の鮮やかさによる。

さらに、とくに彼が注目を惹くのは、
その熱機関の研究こそ産業時代の科学の始まりであり、
かつみごとな典型だからである。

科学が技術と本格的に結びつき、
その結果として、
今日われわれが見るような内容と形式とを具えた科学が形成されたのは、
ほぼ19世紀中葉のことであり、
カルノーの研究は、その最も早い大きな成果であった。

そしてまた、カルノーその人が
産業時代の科学を担うにふさわしい資質、性向、思想の持主であった。

本書は、これらのことを十分に示してくれるであろう。
今日、19世紀以来の科学技術文明の人間的意味と行末とが深刻に問われている。

この問を実りあらしめるために必要なことの一つは、
産業時代の科学というものをさらに深く、
具体的に検討することであろう。

その意味でも、カルノーの生涯と業績は省みるに値するであろう。






目次

はしがき  広重徹

I 熱の科学と技術―熱力学の歴史的背景 広重徹
II-1 火の動力についての考察  サヂ・カルノー
II-2 数学、物理学その他についての覚書  サヂ・カルノー
III カルノーの生涯  イポリット・カルノー

株式会社 みすず書房








  


Posted by 超音波システム研究所 at 18:03Comments(0)ブログ

2017年02月25日

物理学とは何だろうか

朝永振一郎
『物理学とは何だろうか』上・下
1979 岩波新書


・・・

このときカルノーは蒸気エンジンのかわりに

ピストンのついた空気エンジンを構想するのだが、

そこで「熱だめ」や「ピストンをじわじわと動かす」

という段階が必要になる。



ボルツマンが狙ったことは、

確率論と力学の関係をはっきりさせたいという、

その一点に尽きる、



もしボルツマンが長生きしていたら、

ボルツマンが時代をまとめる科学を構築したかもしれない

・・・・


コメント
 上記の全体的な思考は
  強い「直感と意志」から生まれていると感じます





「直感と意志」 西田幾多郎:著

私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、
万物は一者の直観を求めると云つた直観の意義を、
最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ。

自覚に於ては、我が我を対象として知るのであり、
知ることは働くことであり、創造することである、
而して此の知るといふことの外に我の存在はない。

.........

併し作用が作用の立場に於て反省せられた時、
時は更に高次的な立場に於て包容せられて意志発展の過程となる。
而して乍用の乍用自身が自覚し、創造的となる時、
意志は意志自身の実在性を失つて一つの直観となる。

而してかゝる直観を無限に統一するものが一者である、
一者は直観の直観でなければならぬ。





ものごとは、心で見ないと良く見えない
いちばん大切なことは、目に見えない   星の王子さま

詩人でないものは数学者になれない   湯川秀樹

数学の本体は調和の精神である   岡潔


コメント
 調和・・・
 設計(工学)の本質も調和のように思います




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2017年02月25日

キャビテーションの発生とエロージョンについて

キャビテーションの発生とエロージョンについて





自動車エンジンの燃焼技術を参考にすると、
振動子の表面の液の流れが
淀むところでエロージョンが発生することが考えられます

従って、適度な流れを振動子の表面に起こすことで対策は可能です

この流れのコントロール要因に
水自身の動く能力(水の律動的状態)が関係しているように考えています

7層のカスケードはリズム過程群を認知している。

各々の水槽は、流体の流れとなる律動だけではなく、
三次元のリズムをも導く。

水のレベルは水槽の中で上昇下降を繰り返している。
水はそれぞれで律動的拍動状態にある。

7層のカスケードと水の律動




















  


Posted by 超音波システム研究所 at 05:12Comments(0)超音波技術